突然転調のことを理解するために、調に関する予備的説明が必要かもしれません。
調性音楽とは、中心の音と、他の音との間に位置関係が存在する音楽のことです。つまり、調性のない音楽(無調音楽)が登場するようになったので、それと区別するために調性音楽、と呼ばれることになったのです。
「ハ長調の音楽」の中心の音は「ド」です。ドが中心の音であることを証明するためには、他のすべての音がドの音の周りに定まった位置関係を保って存在する必要があり、ハ長調に関係するすべての音を並べたものが音階です。さらに、取り巻く関係調に転調することによって主調を明確にすることも、調性音楽の重要な柱になっています。この点に関しては、文章での説明は分かりにくいので、世界地図を例に比喩的な説明を試みます。
日本では、日本が中心に描かれた地図を見慣れています。世界地図を見れば日本と他国との位置関係が明瞭に分かります。しかし、アメリカの世界地図は、見慣れたものと同じものではないことでしょう。地図の中心国を主調に置き換えて考えてみてください。まず私たちは、ハ長調を中心とした調性音楽世界の地図をイメージしましょう。
ハ長調の北隣にト長調が、南隣にヘ調調が存在しています。「ハ長調」が、「ハ長調」に留まっている間は、相対的な自分の位置関係は分かりません。北隣の「ト長調」に進んで、さらに南隣の「ヘ調調」まで行って帰れば、自分を中心とした地図が描けるのです。つまり、転調は主調の位置を確定することになるのです。転調を重ねて一周すれば、調の世界地図が描かれる、ということですね。
調の説明は、本項の趣旨でないので、ここまでにしますが、西洋の古典派・ロマン派の音楽は、調の理解によって、さらに深く構造が見えるようになります。そのことは、作曲者の意図を理解することに繋がります。それほど大切な仕組みです。以上を長い前振りにして本題に入ります。
「帰途」は導入+主要大楽節A+中間大楽節B+主要大楽節A+コーダの三部形式です。導入は、変ホ長調、属音連打で開始され、Aに進む期待が示されます。
中間大楽節は主調の平行調、ハ短調で始まり、2小節単位で5度高い調に転調し、ト短調、ニ短調と進んで終止に向かいます(Exs.23)。
この転調経過を図で示します(中間大楽節転調の推移参照)。
中間大楽節B(Exs.23のt.17〜)で、隣町(ハ短調)に進み、そこから北上を続けます(ト短調→ニ短調)。次第に自分の住む家からは遙かに離れた場所まで来てしまいました。不安な気持ちになります。ところが、最後の和音一つ(Es:V7)でAに再帰(変ホ長調)します。「びっくり」です。意外ですが、新鮮で自然です。「遙か遠くにあるドアを開けたら、懐かしい我が家」です。
調の位置関係を利用し、周到に中間大楽節Bの上声部に居続ける「レ」を配置し、「びっくり」なのに突然転調が自然に受け入れらるようにしています。「レ」は主調の導音ですが、転調のたびに立場を変えて留まっていることに注目して下さい。
t.24の変ホ長調の属和音を「どこにでも飛べるドア」を開く感覚で弾いて下さい。そして再帰した主要大楽節Aで、見慣れた景色にもどった安堵感を充分表現して楽しみましょう。t.25のスフォルツァンドとピアニッシモにこめられた意味は、そのようなことだと思います。
ベートーヴェン作曲「ピアノ・ソナタ第4番変ホ長調」第1楽章の展開部から再現する部分も是非見比べて下さい。