同音を連打する音型には、特殊な力があるように感じます。同音連打の魔力は、ピアノに限らず、あらゆる楽器に共通して人間の感覚に直に働きかけるものです。人の声以外の、楽器の祖先は打楽器だったと思い出すと納得できます。
ピアノはハンマーで打ってピアノ線を振動させ、空気を伝って聴覚野に届き、音と認識するのですから、原理的な分類は打楽器に近いですね。打鍵後ピアノ線の振動は急速に止まろうとします。つまり、音は減衰して消えてしまいます。延ばし続けることが出来ないのです。また、打鍵後にクレッシェンドしたり、響きの途中で音色を変化させることが出来ません。管楽器や弦楽器では、当たり前に出来ることが出来ないのです。ピアノで旋律を奏でるとき、長く延ばす音では、鍵盤を揺すってビブラートがつけばよいのに、とか、ベートーヴェンの「悲愴」第1楽章の導入冒頭の和音をフォルテで弾いた後、直ちに弱くすることが指で出来ればよいのにとか、思いますよね。ピアノに関わっている人にとっては、弦楽器のような持続する音、持続している間の音に感情移入出来ること等に強い憧れがあると感じます。できる限りの方法を使って擬似的にでも、そのようなことが出来ないものかと作曲家は考えるのです。連打なら出来そうです。チェンバロのトリルも同じ理由で書かれたものと考えて良いでしょう。
連打が性格的動機の中核として働く作品は例示しましたが、ピアニズムの効果的な使用例としては、ラヴェル作曲「道化師の朝の歌」とか、リストの「ラ・カンパネラ」、プロコフィエフの「ピアノ・ソナタ第7番」等々が挙げられます。近・現代になってピアノの連打性能の向上やピアニズムの開発等に伴って、様々な連打が聴かれるようになりました。
「おしゃべり」は前奏+主要大楽節A+中間大楽節B+主要大楽節A+コーダの三部形式です。
中間大楽節B(Exs.17)は全体を属音で保続し、連打によって曲全体の音価密度を平準化しています。この連打が中間部を推進させ、再現の機運を高めていく動力源になっているので、右手の旋律は、それに乗って比較的ゆったりと、大楽節Aと対照的に演奏しても良いかもしれませんね。
念のため、中間大楽節B(Exs.17)は全体が属音保続、と記述したことについて補足の説明をしておきます。
楽譜上t.19〜20で一旦保続が解かれていますから、属音保続はt.15〜18ではないか、という疑問があるかもしれません。そのことについて、t.19〜21は、「ミ——ファ——ド」と属音を強調するための進行に過ぎず、大きな流れで捉えると中間部は全体で属音が保続されている、という見解です。
ソナチネ・アルバムなどのソナタ形式で書かれた曲で、展開部のすべてに渡って属音保続するものが多数ありますが、その中を見ると、このような事例が多数あります。分析で大切なことは、保続の機能がどこから始まり、どこまで続いているかを文脈の中で感じ取ることです。