「魔女」のお話は、ロシアに古くから伝わる民話のババヤガが題材。箒に乗って現れた魔女が仕事を終えると、箒で痕跡を消して去って行く・・・という、子供には怖ーいお話。
分析では、標題音楽の視点を鮮明にするため、主なモティーフ(部分動機)を「魔女m-1」、それに対照するモティーフを「妖精m-2」としました。
20番「魔女」は19番の「乳母のお話」と関連した楽曲で、音響的楽想という点で一致しています。楽節構成は「こどものためのアルバム」の中では異色で、主部——中間部——再現の3つの部分は明快ですが、単純に三部形式と断定は出来ません。そこで、主要な二つのモティーフを手掛かりにして、三部形式を念頭に曲を概観します。
魔女のモティーフm-1(部分動機)と偶成和音を特徴とした音響的楽想の提示がt.1〜8まであり、t.9〜12までその尾部が続き主要楽想Aを閉じます。尾部はナポリ調を借用した終止です(Exs.20-1)。
A部は作品の主題部です。ここには、t.1の偶成和音とt.2の主和音とで出来た強力な磁場の塊があり、それを支えている8分音符群の勢いが加わり独特の音響空間が創られます。
Exs.20-2 は、主要楽想Aに続くものです。Aの対照として置かれ、Aの尾部に出たm-2音形が使われます。m-2は妖精たちのモティーフです。対照楽節Bとしておきます。
魔女と妖精たちのモティーフには連打の有無でキャラクターの違いが鮮明です。魔女の方には偶成和音で魔力が飛び散る様子があり、一方の妖精たちからは、魔力から逃れようと右往左往する様子が窺えます。
t.21からはm-2の発展形が上行してストレット(切迫)します。Aの尾部(t.9〜)を展開したようなテクスチュアで、左手、右手の2声部が交互にやり取りする、緊迫のときです。その形が頂点に達したところで魔女のモティーフm-1(主要楽節A)が1オクターブ上で再現し、その後も切迫した状態が続きます。
これまで見てきた「こどものためのアルバム作品39」の楽曲では、三部形式の場合、Aに再現して安堵する、帰った、というように感じられました。ところが、この曲では主題は再現したけど一層荒れ狂う恐ろしい状態です。t.25からの8小節は通常の三部形式の再現Aと同様には考えられません。
さらに主題の後楽節では、t.32からt.40までの9小節間は2小節単位でT - S - D - T の終止を繰り返します。その間、デュナーミクは漸減し pp までになります。魔女が次第に遠ざかって行く様子です。すでにコーダの様相をしています。
以上の流れから、対照楽節Bから再現とコーダが一体化されていることが、この作品の意味を理解する重要なファクトであることが分かります。
t.40からの6小節は実質的なコーダで、妖精m-2が回想されます。ここは、T - S - Tの変格終止が使われ、魔女が去ったあとの妖精達の穏やかな様子が描かれます(Exs.20-3)。
概観したことをまとめると、
楽曲の構成は三部形式として収まっていますが、大楽節間の繋ぎの部分に創意工夫があることが分かります。「A - B - A - コーダ」という構成の「B - A - コーダ」は、一体的に大きな流れが作られていて、物語が一気に展開しています。
このアルバムは曲ごとに相応しいタイトルがあるので、すべてが標題音楽と言えなくもありませんが、とりわけババヤガは物語に沿った展開をしていると言う意味で、標題音楽作品です。元になった物語を思い浮かべて、その立ち居振る舞い、心理などを受け止めつつピアノで表現することは、音楽の出来る重要な一面です。
標題音楽の対概念として絶対音楽があります。ただし、それらの概念に確たる境界がある訳ではありません。仮にあなたが、この作品を標題音楽として演奏したとしても、聞いた人にババヤガの物語が伝わる訳ではありません。音楽は言葉のように内容を伝えることはできないからです。
そのためにもキーワードに相当する動機m-2が、曲の最後に出てきた時(Exs.20-3)、平和や安堵に対する感謝の気持ちを伝える事ができれば上出来です。
ところで、この曲にしてもシューマンの「子供の情景」でも、曲ごとに相応しい題名が付いていて演奏表現の助けになりますが、日本語の題名は翻訳されたものですから、版によっては微妙に違った言葉に置き換わったりして混乱する場合もあります。
題名から受ける想像を楽曲解釈にそのまま受け入れ、ちぐはぐな気持ちになった時には、いったん題名からの先入観を捨て純粋に楽譜だけを頼りに取り組んでみることもひとつの方法でしょう。