ドビュッシー/「2つのアラベスク」第1番の分析
機能和声からみたドビュッシー

はじめに

西洋音楽を時代様式で分類すれば、ドビュッシーは「近代様式」の代表的作曲家です。
これから分析する「2つのアラベスク」第1番(以下、アラベスク)は、ドビュッシーの初期の作品ですから、ロマン派から近代様式に移っていく音楽に触れるには最適なピアノ音楽のひとつです。

本項では、和声と音楽形式の分析を通して、より相応しい演奏表現につながることを目指します。
なお、例示の楽譜は、説明に必要な最小限の記譜にとどめます。文中、譜例中の和音記号等に関しては、転回形などの詳細は省略します。

和声分析〜機能和声からみたドビュッシー

古典派からロマン派(後期ロマン派と位置づけられた作品群以前の)にかけての西欧音楽は、「機能和声」を根幹に音楽が成熟します。この場合の機能とは「静止し安定したTonicから、動的、不安定なDominanteドミナンテに進めば、再び安定を求めTonicトニックを指向する」というようなことです。安定→不安定→安定のような一連の挙動を「機能」とイメージしてください。ドビュッシーの音楽が、T/S→D→Tの決定的な終止形を基礎としたベートーヴェンなどの和声進行とは異なる響きと感じるのは、機能和声の、ドミナンテの「支配的」機能を弱めて作曲していることも要素のひとつです。
そこで本分析は、和声機能を弱めるために行った工夫、つまり、その後の作曲で機能和声の拡張をいかにして成したかを浮かび上がらせる目的で、機能和声の原理に照らしてドビュッシーの音楽を分析する、という視点で行います。

アラベスクの形式

アラベスクは、導入とA – B – A' の3つの部分で構成されます。
導入 t.1〜5
主部A t.6〜38
中間部B t.39〜70
導入の再現 t.71〜75
主部の再現A’ t.76〜99
結尾 t.99〜107

 

各部の分析

導入 t.1〜5

アラベスクは、t.6からの主部に先立って5小節の導入が置かれています(Exs.01-1)。

DebussyArabesque

導入には、はっきりとは見えないですが、t.1〜2に「ラ−ソ−ファ−ミ」の音形m1が内包されています。m1はこの曲全体の主柱であり、定旋律のように取り扱われ、時には物語を繋ぐ合いの手のようにも使われます。
t.5のrit.は「導入」から主部に場面転換する間合いであり、奇数小節で書かれた導入の寸足らずを埋めるためものでもあります。これから始まる物語への期待を高めてくれるアゴーギクです。
この間の和声について、冒頭の2小節は、IV – III – II – I で、近代の音楽に多用されるようになった2度下行する「弱進行」です。古典的な「和声学」では、弱進行は禁則でしたが、それ以前の音楽では使われていて、ドビュッシーは、新感覚で「弱進行」を使い、同様に古典派の音楽ではほとんど使われなかったIIIの和音を使用したかもしれません。
しかし、単なる弱進行の並進行とは思えない和声的推進力があり、波動が感じられます。その理由として、次のようなことが考えられます。
t.1 IVの和音の最後にfis音を経過音で置いています。この音はIVの付加6に相当しますから、続く3拍目のgisを指向し、Iの和音に進むことを期待させます。ドビュッシーは、Iの和音の代理にIIIを使用し、構成音のdis音は、あたかもIの7の和音としての性質を与えています。その結果、この間の弱進行は、古典派の音楽に慣れた耳にも違和感なく受容されたのでしょう(Exs.01-2)。

DebussyArabesque

t.3〜4は、IIの和音。t.5でドミナンテに進みますから、バスの最初の音「ド」から順次下行して、t.5の「シ」までの間の音群「シラソファミレド」は、経過音と聞こえます。導入を要約したExs.01-3を参照してください。

DebussyArabesque

 

主部 前楽節相当部分 t.6〜16


主要部Aはa+a’のふたつの部分で成り立っています。Exs.02-1は、前半のaの部分です。

DebussyArabesque

導入の5小節間は3連音符が切れ目なく刻まれていましたが、t.6から始まる主旋律に対する左手の伴奏音形に初めて8分音符が現れます。これにより、たて糸とよこ糸が編み込まれた織地のようなテクスチュアが生まれます。右手旋律(t.6)には、分散主和音の音形の中に第2,6音が異国のスパイスのように付加され、反復される唐草模様を想起させます。タイトルの「アラベスク」の由来です。
t.6からの4小節間は主音を保続したトニック領域で、t.7の、VIの和音にみえるのは偶成和音です。

音楽が動き始めるのは、t.10からです。
Exs.02-2は、t.10からの和声進行を要約したものです。

DebussyArabesqueバスラインに着目すれば、fis音から順次上行してais音を目指します。上行するバスラインに対して反進行する声部が見え隠れして、t.10と12の同一和音に挟まれたt.11には、VI7に見える経過和音(偶成和音)が出現します。第2転回形です。

主旋律の歪んだ楽節

t.6〜16の11小節間は、譜例(Exs.02-3)の旋律上部にローマ数字で示したように、2+2+3+4小節という奇数切りを含んでいます。その結果、t.13から畳み掛けられた動きが生じますが、「stringendo」の書き込みがさらに切迫を補強します。

DebussyArabesque

t.16旋律の最後の音gis音は、次の小節に進むために導音進行する経過音です。直前のgisとは性質が異なりますから、書かれているままにこのgisまでrit.してしまうと次に繋がっていきません。t.13からのstring.とt.16のrit.は、自然な抑揚が生まれるよう計画して演奏してください。

t.10〜11のリズム形をr1とします。r1リズム形は、中間部の主要なメロディーでそのまま使われます。

後楽節相当部分と小結尾 t.17〜38

(Exs.03-1)は、 後楽節相当部分a’と小結尾です。

DebussyArabesque

t.17〜18では、前楽節と後楽節を繋ぐために、導入の冒頭2小節を、隠されていたもの(m1)をあらわにして挿入します。ただし、t.16からt.17に入る和声的つながりは希薄で、わずかに旋律の導音進行に託されています。そのため、吸い込まれそうになる迷路(t.13〜16)の先に突如現れる出発地点のような印象を受けます。ただ、冒頭の漠然とした出発とは違って、確信ある道標として現れます。t.19からのa’の後楽節相当部分は、音色の流動化のために経過転調を続け、t.26で下属調に達します。

t.19からのa’本体の和声進行を要約譜で見ていきましょう(Exs.03-2)。旋律と4声体に要約したものです。

DebussyArabesque

旋律部で、t.23のcis音は非和声音で、本来2度下のh音に解決すべきですが、非解決のまま置かれています。和音の第9音に相当し、サブドミナンテの9の和音が制限なしに使われていることを示しています。
一方、4声体部では、テナー声部以外の3声部はt.23まで並進行しています。t.19の後拍はV7に挟まれた偶成和音です。この動きが調を変えて(3度下がりで)ゼクエンツします。それにより、S→D/S→D/S→D/の連続5度を伴った並進行が現れカデンツの連続性が破られます。

これまでの分析の中で、いくつかの経過和音、偶成和音の使用が確認されました。いずれも、部分的な和声進行機能を弱めるためのものです。

t.26からはCodetta(小結尾)相当部分です。コデッタの低音は概ね基本形でI - II – V – Iの終止のためのカデンツ(終止)を明示しています。また、音形、リズムにも新鮮な対比が図られます。主部と小結尾の書き分けが、水際立っています。また、主部の浮遊感から一転して、小結尾のバスラインは低域で保持され、音響の充実と調の安定を一気に補います。演奏に際しては、長めのペダルの使用とともに、フィンガーペダルの効果を積極的に検討することも音響の充実と上部倍音の多彩化に貢献するでしょう。

カデンツの連鎖と中断

機能和声では、一般的にT→(S)→D →Tのカデンツの連鎖によって進行するのですが、チャイコフスキー(Exs.03-3)の1小節目のように、転調(他調の借用)によるなどしてカデンツの連鎖が中断されることがあります。 また、カデンツの中断は意図的なフレーズの中断(挿入)、または巻き戻し的な効果のために使われることもあります。シューベルトのアルペジョーネ・ソナタの例では(Exs.03-4)、t.156〜157に、終止直前にフレーズを中断しSを挿入したため、D→Sの連結となり、t.158では終止を装飾するためにSが挿入されてD→Tの連鎖が絶たれます。

中間部B t.39〜70

中間部では、一般に主部との対照と統一が図られます。この作品での対照と統一を、列挙しておきます。

対照(コントラスト)要素

・速度の変化。
・主部が8分音符・3連符の分散和音による伴奏と旋律であるのに対して、
  中間部では4声体のコラール、または弦楽4重奏風に書かれていること。
・主部は、歪んだ楽節を含んで推進的。中間部は4小節単位で繰り返しが多い。

統一要素

・m1の定旋律のような音列に支えられている。
・中間部の最初t.39〜40の旋律リズムは、t.10〜11のそれと同一。


(Exs.04-1)は、中間部の開始部分です。

DebussyArabesque

t.39〜40のシンコペーションのリズムを基調としたメロディーのリズムr1は、主部のt.10〜11のメロディーのリズムと同一です。その後もシンコペーションが続きます。t.44で、E-durに転調して終止します。ここまで、t.39〜46の8小節が中間部の主要部(B-a)です。t.47〜54が中間部の中間部(B-b)で、その後t.55〜62(B-a)が続きますから、この中間部全体はB(a+b+a)の小3部形式になっています。中間部の本体は、t.62までです。
t.63からは主部に再現するためのブリッジフレーズです。同主調の6度調に突然転調し4小節。t.67からt.63のフレーズをエコー反復し、低域の音は消え、重たさは去り、再現を模索します。t.67の和音は豊かな響きのある弱音で開始されるでしょう。t.71で冒頭の導入部へ再現します。決定的なD→Tの再現感もこの作品では不自然なので、ここでも、フェードアウト的に各声部がt.71の最初の音に向かうように進みます。中間部と再現を繋ぐこの部分のデュナーミクアゴーギクは難問です。
(Exs.04-2)は、t.39〜42の非和声音を和声音に還元し下段に書き込みました。

DebussyArabesque

導入と主部の再現A’ t.71〜99

この部分は、冒頭部分を忠実に再現しています。時折、微妙な変更はありますが。

動きが変化するのはt.89からです(Exs.05-1)。

DebussyArabesque

t.89〜90はt.87〜88を変奏して反復していますが、別人のように姿を変えるので、気づかず、初めて会う人のような新鮮さがあります。このフレーズをきっかけに、2小節単位で3度下がりのゼクエンツ風に運んでいきます。結果、バスラインは、「ドシラソファミレドシラソ」と最長の順次下行を遂げ目的のファまで進み、t95からは、t.5〜6を拡大したのような終止を見せます。この間の旋律線t.89〜99は全曲の中で一番長いフレーズであり、印象に残る閉じ方です。
その後、t.99から最後までは主音保続の結尾で、主動機が回想されます。